なかへちは旅人の心を癒やす里
中辺路街道は、古代末期から近世にかけて「蟻の熊野詣」といわれるほど、多くの参拝者がこの山間の町を往来していったと伝えられています。
町内各所には、当時の旅人の休憩場所となった王子跡やゆかりの地が数多く点在し、懐かしい古代ロマンの香りが色濃く残っています。
熊野古道
中辺路町は、その町名も、熊野三山への信仰の道として栄えた熊野古道「中辺路街道」に沿って由来しています。
深い山の緑と富田川の清流に恵まれた自然の中に、平安の王朝文化が生き続ける歴史の里です。
国道311号に沿って山の尾根づたいに熊野古道が通り、王子社は五体王子の一つ、滝尻王子ほか、大門王子、大坂本王子、近露王子など、12社も点在し、今もなお往時の面影を残しています。
熊野古道について下調べするなら 熊野古道館へ。
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清姫の里
なかへちには伝説「道成寺物語」の清姫にまつわる史跡があります。
史跡には清姫が水垢離をとったという「清姫渕」、安珍の帰りを待った「清姫のぞき橋」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」があります。
清姫祭り
なかへちでの、夏の大イベント、「安珍と清姫」をテーマにした清姫まつりが、毎年7月末頃に開催されます。
清姫が化身し、龍となり火を吹きながら会場を練り歩く姿や、花火が夜空を彩る姿は、とても華やかで美しい光景です。
道成寺物語
平安初期(908)真砂の庄屋、清重の一人娘として清姫は生まれました。清姫は清らかで男たちのあこがれの的でした。
縁談は降るようにありましたが、清姫は奥州白河の「安珍」という僧に想いを寄せていました。でもその思いは 、悲しくも裏切られてしまうのでした。
深く心を傷つけた清姫は大蛇に姿を変えてまで、道成寺の鐘の中に隠れた「安珍」を追ったのでした。
この安珍と清姫の悲恋の伝説が、「道成寺物語」として世に広まりました。
一願寺
清姫の墓近くから北ヘ、西谷川にそって2kmほど行くと福巌寺(一願寺)があります。
この境内に、「一つの願いを必ず叶えてくれる」という地蔵尊が祀られていることから「一願寺」と呼称されています。
このお地蔵さんは、文政六年(一八二三)、八十三歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道桟和尚をまつったものと言われ、地元では、「一願地蔵」や、「からし地蔵」と呼んでいます。自らの臨終を悟った和尚が、死の三日前、村人一同を集めて別れのあいさつをし「わしの死後、地蔵をつくって人通りの多いところへまつってほしい。まつってくれれば、一人に一願は必ず叶えて進ぜよう」と約束。
「ながながと如来のまねも今日限り」との辞世の句を残し、本堂で坐死したといいます。和尚が好んだと言われる、からしとお酒を供えれば、願い事が一つ必ず叶うといわれ、「からし地蔵」とも呼ばれているようです。
地元だけでなく、遠方からも多くの信仰者を集めています。
福巌寺沿革
禅宗で臨済宗妙心寺派。
万治以前当字、菴ノ尾に福徳菴という菴寺があり、又、真砂に漬入山萬福寺があったが大水害で流失(年号不詳)。寛文二年、福徳菴と萬福寺が合併しました。
海蔵寺第五世桃源大和尚を開山にお迎えし、寺号を雪峰山福巌寺と改め西谷と真砂のご先祖と清姫一族の菩提を弔うため建立されました。
福定の大銀杏
福定の宝泉寺境内にある樹齢、推定400年の大銀杏は、市指定文化財とされています。
幹の周囲5.3メートル、高さは22メートル。根元から高さ4メートルで幹が数本に分かれ、千本銀杏とも呼ばれています。
国道311号線から見ても紅葉の頃には、はっきり見つけられるその姿は、山の木々の間からこんもりと黄金色に光ってそびえています。
見ごろは、毎年11月中旬~11月下旬頃で、遠方からも訪れる方がいらっしゃいます。
高原熊野神社と霧の里
高原地区の産土神である熊野神社は高原王子権現とも呼ばれ、熊野九十九王子には入っていませんが古道に沿う歴史のある神社で、応永10年(1403年)の銘のある懸仏がまつられていることでも知られています。
桧皮葺の建物は室町時代の様式を伝えていて熊野参詣道のなかで最も古い建物だといわれています。
境内にある楠は樹齢1000年ほどと言われ、神社の歴史を物語っているように見えます。
霧の里
滝尻王子の裏山(剣山)を登って高原地区へと入って行く熊野古道。その古道沿いに散策者の休憩場所「高原霧の里」があります。ここは果無(はてなし)山脈が一望できる絶景のスポットで疲れも吹き飛ぶほどの美しさです。ここには、ジュースの自動販売機、トイレ、公衆電話、駐車場が完備しています。
野中の一方杉
熊野古道の継桜王子境内に樹齢800年の杉の巨木があります。この木は「野中の一方杉」と呼ばれており、県の天然記念物に指定されています。老木の空洞は優に20人の大人が入れるほどの広さがあります。
10本近くあるうち、最大のものは幹の周りがおよそ8mもあります。
みな同じように南にある熊野那智大社を慕うように枝を伸ばしているので、一方杉と呼ばれているわけです。この不思議な現象は生物の生態を知る上でも貴重なものと言われています。
県無形文化財指定の「野中の獅子舞」もこの境内で行われます。
野中の獅子舞
なかへちの近野神社や継桜王子へ奉納される獅子舞で、約700年の歴史を持つ貴重な伝統芸能です。
昭和46年には県無形文化財に指定されています。
南北朝時代の初期、近露の野長瀬(のながせ)一族が大塔宮護良親王の御軍に出陣する際のはなむけに舞ったと伝えられています。
以来、郷土の平安を願って舞を演じ継がれています。
●開催日時/毎年11月3日、1月3日
●開催場所/田辺市中辺路町近野地区(近野神社、継桜王子)ほか
野中の清水
古来一度も枯れたことのない湧水で、清水は道下の養命寺の近くを流れ、野中川に注がれています。
日本名水百選のひとつにも選ばれています。
県指定文化財の名木「野中の一方杉」の繁る継桜王子の近くにあり、いにしえから熊野詣の旅人の給水ポイントとなっていたようです。
ここを訪れた旅人の多くが湧水との縁を歌枕に数々の歌や句を残しています。
「いにしへのすめらみかども中辺路を 越えたまひたりのころう真清水」
歌人・斎藤茂吉もこの清水に魅了され、昭和9年にこの歌を詠んでいます。
秀衡桜
継桜王子社から約100メートル東の道端にある桜が「秀衡桜」です。
昔は継桜王子の社前にあったのですが、前の桜も明治の水害で倒れてから現在の場所に植えられました。
秀衡桜は、奥州の藤原秀衡が生まれたばかりの子を滝尻の岩屋に残して熊野へ参る途中、ここで杖にしていた桜を地に突き刺し、それが成長したものだという伝説があります。植えつがれていまの桜は何代目かになります。
そばに高浜虚子の「鴬や御幸の輿もゆるめけん」の句碑があります。
乳岩と秀衡桜(民話)
奥州平泉の藤原秀衡は40歳を過ぎても子どもに恵まれないので、熊野権現へ17日の参篭をして願をかけた。その願はかなえられて妻はみごもり月日は流れて7ヶ月となった。
熊野権現のあらたかな霊験で懐妊したので、そのお礼詣りにと、妻と共に旅立ち永の旅路を重ねようやく滝尻に着き、ここの王子社に参詣したところ未だ臨月に達しないうちに産気を催し、不思議にも五大王子が現れて「この山上に胎内くぐりとて大きな岩屋がある。汝只今いそぎそこで産されよその子はそこに預けて熊野へ参詣せよ」とのお告げがあった。
そこで岩屋で子どもを生みそのまま寝かせておき熊野へと急いだ。
途中野中で手折りにした桜の杖を地にさし「参詣の帰り途この杖に花が咲いていたら無事なり」と立願して本宮へ急ぎ、熊野大権現を拝礼し、すぐ下向して野中に着き桜の杖を見ると、花はいきいきとして香盛んであった。
さてはわが子も無事であろうと滝尻の岩屋へと急いでみると、子どもは一匹の狼に守られ岩から白くしたたる乳を飲んで丸々とこえていた(この子が後の藤原忠衡である)。
これこそ神のお救い、何とかしてご恩を報いたいものと後に七堂伽藍を造営して諸経や武具を堂中に納めた。
これを秀衡堂とも七堂伽藍とも言ったが、天正の兵乱にこわされ今では記録さえ残っていない。秀衡はその伽藍の維持費として黄金を壷に入れ近くに埋めたと伝えられている。 この岩屋は乳岩と呼ばれ深さ6メートル横4メートルぐらいであり、腹這いでくぐり抜けることができる。乳の少ない婦人が詣るとご利益があるという。
また秀衡がさしたと言う桜は「野中の秀衡桜」といわれ現在のは二代目か三代目らしいが、桜のそばに「奥州秀衡二代の桜」と刻まれた石柱が当時を物語るようにたっている。
三体月
なかへちでは、旧暦11月23日に昇る月が三体に見えるという伝承があります。
高尾山や、上多和(うわだわ:熊野古道・悪四郎山を越えた所)、要害森山(ようがいのもりやま:口熊野と奥熊野の境界であった三越峠の南にそびえる)で、11月23日に三体の月を見ることができるとの伝承があって、近隣の人々は山中で月待ち行事を行いました。
この月は三体となって東方に昇り1時間ほどを経て一体にまとまるといわれ、この確認を試みようとの動きがあります。
なかへちでも、例年この伝説にちなんで観月会が潮見峠で開かれます。
三体月(熊野に伝わる説話より)
なかへちの高尾山で修行していたひとりの修験者が野中(のなか)、近露(ちかつゆ)の里に降りてきて、「11月23日の月が出たとき、高尾山の頂きで法力を得た。村の衆も11月23日に高尾山に登り、月の出を拝むがいい。三体の月が現われる」と里人に告げ、立ち去った。
里人たちは疑ったが、翌年の11月23日、幾人かの里人が高尾山に登り、修験者の言の真偽を確かめることにした。もし三体の月が出たら、山頂からのろしを上げて里に知らせることにした。
月の出を待った。月が出た。里からはいつもの通り一体の月が見えるだけである。
しかし、高尾山山頂では、一体の月が出ると、その左右からもそれぞれ一体ずつの月が出た。
修験者のいう通り、三体の月が出たのである。
これを見た人々は急ぎ、薪を集めて、里人へ知らせるためにのろしを上げた。
これを見た里人たちは、顔を見合わせ、不思議な山と修験者のことを語り合った。
このことがあってから、毎年11月23日の夜には、高尾山に登り、月待ちを行うようになった。